私の自己史

今、私と同い歳の作家三田誠広氏の『早稲田1968~団塊の世代に生まれて』という三田氏の自己史的なエッセイを読んでいて、私自身の自己史と重なる部分もあるし違いを感じる部分もあるし、この先どれだけ生きられるかも判らないので、ここらで私の自己史をまとめてみようかと思った次第。

【父】

先ずは父のこと。
父は大正12年(1923年)に仙台市郊外に生まれた。祖父は大工で山林地主でもあり、父は長男だった。
父が物心つく前に祖母は離婚し、父は実母の顔を知らないままに成長したようだ。
幼い頃から神童と呼ばれる程に利発だったようだが、やがて祖父が再婚し養母がやって来ると次々に義弟・義妹が生まれて一家の生活は苦しくなり父も新聞配達・牛乳配達をしながら学校に通うようになる。

中学校へは進学出来ず、仙台工専(工専は今の工業高校に相当。5年制)に進学したが入試の成績は仙台工専始まって以来の高得点だったらしい。
しかし継母との不和から気持ちが荒れた時期があり一年留年したようだ。おそらくその時期なのだろう、家出して小樽に居ると人づてに聞いた実母を訪ねて行っている。
実母は既に再婚し異父弟も居たが再婚相手の男性は優しい人で、突然訪ねて行った父を温かく迎えてくれた。
これ以後、父は実母を「小樽の母さん」実母の再婚相手の男性を「小樽の父さん」と呼ぶようになった。

ずっと後に札幌に住んでいた頃、父はよく日曜などに私をオートバイの後に乗せて「小樽の母さん」の所に行った。
「小樽の父さん」は戦時中の手榴弾暴発事故で大怪我して戦後はずっと寝たきりで、祖母が助産婦をして生活していた。
私は血の繋がった祖母よりもむしろ血の繋がりの無い「小樽の父さん」から可愛いがられた。
札幌から東京に引越すことになって別れの挨拶に行った時「小樽の父さん」は餞別にと一冊の本をくれた。戦前に発行された岩波全書の「地圖の話」という本だった。私はこの本を繰り返し繰り返し読む事で旧仮名や旧字体の漢字に慣れていった。
「小樽の父さん」と会ったのはそれが最後だった。10年余り経った70年代初めに亡くなったとの報せが届いた。77年には祖母もパーキンソン病で亡くなり、父の異父弟も40代の若さで死んだと聞いた。